【憲法トリビア④】制定過程における日本とドイツの違い

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制定過程における日本とドイツの違い

 第2次大戦において、同じ敗戦国であるドイツ
と日本の憲法制定過程についてお話します。

【日本】
 戦後、比較的早くから憲法改正の議論が始まり
敗戦の翌年には新憲法が交付されました。この背
景には天皇制の問題がありました。マッカーサー
は、様々な理由から天皇制の維持を目指しました
が、それを成功させるためには、なるべく早く日
本人に改正憲法を作らせ、そのなかで天皇制の維
持を表明させておいたほうが良いと考えました。
何故なら、占領国の中には、天皇制を強く批判し
ている者もいれば、天皇本人の政治責任を追及し
ようとする動きがあったからです。そうした動き
をけん制するためにも、早く日本人に憲法改正を
させて、戦争の放棄と引き換えにする形で天皇制
の維持を認めさせるしかありません。従って、天
皇制の護持と戦争の放棄は一体だったのです。

【ドイツ】
 新憲法が制定されたのは1949年です。憲法
制定が遅れた最大の原因は、分割占領ということ
にありました。ドイツ人の多くは占領地区全体を
併せた統一ドイツの復活を考えた上での新憲法の
制定を考えていたため、この新憲法制定は、東側
との分断という苦渋の選択を意味しました。

【両国の比較】
 両国の憲法を比較すると、著しい対称性が認め
られます。まず、制定の主体であるが、日本につ
いては所謂「押し付け憲法」と言う言葉があるく
らい、占領者たるアメリカ側の意向が強く反映し
ていました。それが平和主義、民主主義、基本的
人権という三本柱になったわけです。

 これに対してドイツの場合には、ドイツ人自身
が主体的に憲法制定を行いましら。ドイツの場合
はワイマール憲法という歴史的な遺産として憲法
を持っていたので、いわゆる近代憲法の精神にの
っとった憲法を制定する意思と能力はもっていた
わけです。

 しかし、この新憲法にドイツ人自身が盛り込ん
だ理念は、自由主義的なものであり、日本の新憲
法の持つ社会民主主義的な色彩とは著しい対照を
なしていました。

その背景には冷戦の厳しい現実があり、また東側
において社会主義的な理念が喧伝されていること
への対抗心もあったと受け取れます。

以上のような両国の憲法制定過程を踏まえ、皆さ
んはどのような考えを持たれましたか?

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